開成番長の勉強術 プロローグ〜開成番長はこうして育った〜

この章では、著者の波乱万丈な人生を通じて、子どもの成長における好奇心・挑戦・失敗・学びの価値を取り上げている。保護者が子どもの学びを支える上で、どのような環境を整え、どのように関わるべきかを考えるヒントとなる内容だ。
この章の目次
幼少期〜小学生時代
元気でお調子者の少年
学びの原点は、知識を詰め込むことではなく「知りたい」という意欲にある。幼少期から世界の国旗を100カ国以上覚えていたという経験は、強制された学習ではなく、純粋な好奇心がどれほど強力な学習動機となるかを示している。
親が教え込むよりも、子どもが興味を持った瞬間を逃さず応援する姿勢が重要だ。明るい父親の影響と、買い与えられたゲームや教材が、自然な形で記憶力と好奇心を育てた。この環境が、後の学習能力の基盤となっている。
初の海外へ
6歳から8歳までのニューヨーク生活は、言語習得だけでなく、異文化への適応力を育てた。現地校での困難な経験を通じて、「フィーリングで通じる」コミュニケーションの重要性を学んだ。
この経験は、後に「日本の中学で習うような文法知識を体系立てて知っておくことは必要ない」という考え方につながる。完璧な知識よりも、実践的なコミュニケーション能力の方が重要だという学びだ。
帰国、そして進学塾入塾
海外での2年間の生活を経て、小3の頭に日本へ帰国した。好奇心旺盛で目立ちたがり屋の性格の良い部分として、アメリカにいた時から「学研」などの教材に取り組んでいたことも手伝って、テストの成績は良かった。
そのため、日本の小学校に編入して程ない時期に、親戚から塾通いを勧められた。当時は中学受験が今ほどメジャーではない時代だったが、親に言われるがまま塾の入室試験を受けたところ、能力別コースの一番上に入れることになった。
SAPIXへの移籍
通うと決めて試験を受けたわけではないので悩んだが、「とりあえず行ってみて、合わなければやめたらいい」という親の言葉で、まず通ってみることを決意した。これが著者と最初に通った塾「TAP」との出会いだった。
最初は真面目な場所だと思って嫌な気持ちで塾に行ったが、担当の先生が超ノリノリで迎え入れてくれた。アメリカ帰りと聞いた先生は黒板いっぱいに筆記体で自分の名前をサインしてみせ、みんなは大爆笑した。塾に対するネガティブなイメージは一発で吹き飛んだ。
SAPIX〜開成合格
徹底した復習主義
SAPIXの指導方針は徹底した復習主義だった。教材はその日の授業で初めて渡されるため、そもそも予習は不可能だった。これは非常に理にかなったシステムで、小学生相手に予習が必要なほど高度な授業をするなら、それは授業の構成を考え直すべきだという考え方に基づいている。
予習をしないことで復習の時間を多く取ることができ、記憶を定着させるには徹底した復習が欠かせない。「予習に時間をかけるなら、その分の時間を復習に割くべきである」というのがSAPIXの理念であり、著者の考え方ともなっている。
テレビ取材
6年生の夏、SAPIXがテレビで特集されることになり、先生から「誰か一人生徒を取材したいようだから、塾生代表として出てみないか」という打診を受けた。目立ちたがり屋の著者は即OKし、テレビ朝日の「ザ・スクープ」という番組に、一日の生活を密着取材されることになった。
内容は朝自宅で起きるところから始まり、小学校へ登校→小学校内の様子→下校してすぐ通塾→塾での様子→帰宅という流れで密着取材された。「TVカメラがきた!」ということで著者を含め周りの友人たちは盛り上がり、一日中周囲を大勢の人間に囲まれた。
雲も地震も乗り越えて
いよいよ本番、開成入試当日の1992年2月1日、都内は記録的な大雪に見舞われた。交通機関は大幅に乱れ、ほぼ全ての学校で試験開始時刻を遅らせるという異例の事態となり、開成の試験は翌日の2月2日に繰り越されることになった。
2日未明には都内を震度5の強い地震が襲った。起きる予定のなかった早い時間に目覚めてしまい、そのまま寝られなくなって焦ったが、親に上手く落ち着けてもらってなんとか試験へ向かった。いろいろな事件に見舞われながらも、何とか本番では全力を出し切ることができ、あとは祈りながら発表を待った。
開成中学時代
さわやか開成生活のはじまり
憧れの開成に入学した著者は、新品の学ランに身を包み、ピカピカの制帽を被り、フレッシュな気持ちで毎日通学していた。新しい仲間もたくさんでき、とにかく学校が楽しくて仕方なかった。
開成のいいところは、世間一般で思われているような「ガリ勉校」ではないところだ。「パンカラ」という言葉がぴったりの校風で、入学して早々、一大イベントである運動会に向けて、高3の指導のもとみっちり一ヶ月間しごかれることになる。
ギャンブラーの目覚め
学年末の終業式で成績優秀者の発表が行われ、開成では学年を通じて評定平均が8.5以上だと「優等賞」、9.0以上だと「特別優等賞」という名誉ある賞がもらえる。著者は平均が7点台だったため届かなかったが、一緒に遊んでいた友人がその賞をもらうのを見て衝撃を受けた。
「あいつら、ちゃんとテストは点数とってるのか。俺も表彰されたいな」という単純なきっかけで、中2の目標として学年末に優等賞で表彰されることを掲げた。しかし中2になるとクラス内で花札やトランプが流行し始め、それらカードゲームをやる際には、多少の賭け事も行われていた。
中3で成績は頂点へ
ギャンブルに明け暮れるかたわら、試験前一点集中の勉強法で、きちんと成績を維持することに成功した。そして中2の終わりには、目標であった優等賞を受賞することができた。「こうなったら、中3では特別優等賞を狙ってやろう」と校内賭博の元締めが考えた。
学園生活3年目ともなれば、目立つ奴は学年内で有名になっていく。著者もその生活っぷりから、生徒間でも教師間でもかなり有名な存在になっていた。問題児というか異端児というか、とにかく何かと話題にのぼる奴だったことは間違いない。
悪夢の事件
中3も秋口になる頃には、ついにギャンブルで動く金額が一回の勝負で万単位というところまで行き着いてしまった。もちろん、中3でそんなお金を持っているわけがない。必然的にそのお金は大部分が紙の上でのやりとりと化していた。しかし、一部では取り立ても行われていた。
先生達もさすがにその様子は察していただろう。いつ取り締まるかタイミングを計っていたに違いない。そこで事件は起きた。著者が取り立てた相手が、負け分の返済に窮し妹の通帳に手をつけてしまった。それが親に見つかり、学校へ報告が行ったことで、学校側としても堪忍袋の緒が切れたようだった。
精勤崩れ、しかし特別優等賞獲得
そんなことがあったので、中3の残りは、何としても校長を見返そうとさらに気合を入れて勉強に取り組んだ。しかしその矢先、またも事件は起こる。開成では、優等賞や特別優等賞と並んで表彰される賞として、精勤賞というものがある。無遅刻、無欠席が条件で、6ヵ年精勤、3ヵ年精勤、1ヵ年精勤とあるが、とりわけ6ヵ年精勤が非常に名誉のあるものとなっている。
著者は6ヵ年精勤を狙っていたため、朝があまり強くない性質ではありながらも、頑張って中3の秋まで精勤を続けていた。しかし、ある晩、猛烈に腹が痛くなり、救急で病院に運ばれた。その痛みは明け方になっても治らず、ついに学校を休むという苦渋の決断を下した。
開成高校〜浪人〜東大合格
勉強がまったく手につかなかった時代
いよいよ中学から高校へ進学となるが、中3のあいだ緊張感を持って成績を維持することは、かなりの精神力を消費したようだった。学年が切り替わるとともに、急に勉強を頑張るエネルギーが失われるのがわかった。
また高校になると、運動会熱が一気に盛り上がる。著者は援団(応援団のこと)に入りクラスを引っ張っていく存在として、とりわけ運動会に力を注いだ。そのため1学期の中間テストは、中3の反動と運動会、両方の理由から勉強に身が入らず、クラスで4位だった。
麻雀狂乱期
150番をとった高2模試の頃には、ギャンブルの封印が解かれてしまった。封印が解かれるきっかけは、高2修学旅行での紙麻雀だった。ここでも完璧主義の逆噴射が発生する。「一度やったらもう二度三度やっても同じこと」。その結果、たまっていた鬱憤もあり、再びギャンブル三昧となってしまった。
するといよいよ勉強もやらなくなる。もう完全に勉強は捨てて、明けても暮れても麻雀のことを考える日々、雀荘に入り浸る生活を送ることになった。その頃よく行っていたのは開成からほど近いところにある「東東」という雀荘、もしくは卓代が安かった高田馬場の雀荘だった。
一気の追い込み
中3時の栄光も過去の話、普段の勉強はもとより試験前の勉強すら怠るようになった著者は、高3を迎える頃には典型的な駄目スパイラルに陥っていた。成績が良かったのはもはや過去の時代になっているというのに、現実を認めたくなくて勉強から逃避。「自分は勉強していないからできなくて当然」と「逃げのバリア」を張り、そしてそれが更なる没落を招く。完全な悪循環だった。
さすがにそのままではいい結果を招かないのは理解できたので、なんとか一念発起し勉強モードに入るタイミングを見出そうとしていた。しかしズルズル先延ばし。いつまでたっても本腰を入れた勉強が出来ないまま受験を迎えた。そして受験校は、強気の東大文I一本。言うまでもなく、これは強気というよりもかなり無謀な挑戦だ。しかしもう腹を括っている部分があった。こうして著者は見事不合格、浪人生活をスタートさせることになる。
そして浪人へ
浪人した著者は、駿台のお茶の水校に通うことになった。もちろん4月に浪人が始まったばかりの頃は、しっかり1年間は勉強に勤しもうという決意もあった。しかし、いきなり強烈なトラップが著者を襲う。著者が浪人するのを待っていたかのようなタイミングで、御茶ノ水駅前に雀荘が新規オープンしたのだ。なんという甘い誘惑。新規オープンということで客同士は仲良くなり、その居心地の良さに、そして駿台よりも近い駅前1分というロケーションの良さに、すっかり入り浸ることになる。
こんな状態で成績が伸びるわけはない。夏を越えて秋を迎えても、模試の成績はE判定、東大合格には到底手の届かない位置にいた。さてどうしたものか。雀荘通いを続ける自分にかなりの焦りはあったものの、どうにも勉強モードに入るきっかけが見出せずついに12月を迎えてしまった。このまま行ったら2浪確実だ。「どうしよう」。さすがに焦った。しかしその焦る気持ちとは裏腹に、足は確実に雀荘に向かっていた。
東大〜塾講師〜パチスロプロ〜塾経営
塾講師をして学んだこと
大学入学と同時に、著者は古巣SAPIXで塾講師のアルバイトを始めた。今まで授業を受けることはあっても授業をする側に回るのは初めてだったので、果たして自分のやり方が生徒に受け入れられるのか、最初はとても不安だった。
著者は開成で6年間過ごしてきたので、周りにいたのは基本的に「理解力の高い」人たちだった。それもあってか、著者は最初に能力別コースの一番下から担当を任されることになった。このことは、著者の中に大きな革命をもたらす。勉強の苦手な子が抱える悩みをまのあたりにすることで、教えるということの難しさ、そして奥深さを知ったのだ。
超絶スロプロ時代
塾講師に精を出す一方で、大学の授業は1年の最初のうちから早くもサボりまくっていた。塾講師の他に、サークル、飲み会、麻雀、デート。もともと勉強嫌いな著者の生活に、大学の授業が入る余地はなかった。
そして大学2年になった頃、そんなフーテン生活に愛想を尽かされたか、彼女に別れを告げられることになる。そのショックをバネに真面目に学校に通うのかと思いきや、そうはならなかった。空いた時間の寂しさを埋めるため著者が選んだのは、パチスロだった。
自分の経験を勉強術へ
このように、著者は本当に浮き沈みの激しい人生を送ってきた。常識的には評価されないかもしれない。しかし著者はこんな生き方を誇りに思っている。なぜなら著者自身が、自分の人生を充実したものだと感じ、楽しんでいるからだ。
他人にどう思われようと関係ない。高校時代に麻雀に明け暮れたり、大学をサボってパチスロ生活をしたりしたことは、一見無駄なことかもしれない。しかし開成や東大にいながらそういう生活ができたことは、とても貴重な経験だろう。今はそれらの経験も、著者にとってプラスになっている。著者の周りには本当に素敵な仲間がいて、毎日が楽しい。
まとめ
著者の人生は、成功も失敗も、すべてが学びの材料となっている。好奇心を育て、挑戦を応援し、失敗を受け入れ、多様な経験を積むことの重要性が、この章から読み取れる。保護者として、子どもが安心して挑戦できる環境を整えること、それが最大の支援である。完璧を求めすぎず、子どもの個性と成長のペースを尊重しながら、適切なタイミングでサポートすることが求められる。