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東大生だけが知っている! 超短期勉強術 CHAPTER 3 事例研究 逆境から這い上がった東大生たち

東大生と言えば受験エリートの集まりで、中学・高校時代もさぞかし優等生だったと思われがちだが、実際には成績が下位に低迷したり、落ちこぼれのレッテルを貼られたりした人たちもたくさんいる。本章では、灘高で校内偏差値10.5から東大に合格したY.Sさん、愛知県立一宮高校で学年200番台から東大に合格したT.Yさん、駒場東邦で部活三昧から東大に合格したT.Kさんの3名の事例を紹介。彼らがいかにしてどん底から脱し、逆転合格を果たしたのか、そのプロセスを詳しく見ていく。

この章の目次

Y.Sさん:最後まで我流を貫き通す

Y.Sさんは、校内偏差値10.5という驚異的な低さから東大合格を果たした。小1以後は落ちこぼれの連続で、灘中に滑り込んだ後も一貫して下位をキープ。高3の秋にようやく焦り始めたが、そのときの数学の校内偏差値は1.5だった。

小1以後は落ちこぼれの連続

学校名だけ見ると、大阪の私立幼稚園、私立小学校、灘中学校・高等学校、そして東京大学文科Ⅱ類と順風満帆に見える。しかし実際は、自分の人生のピークは小学校1年生だったという。小さい頃からずっと塾で勉強させられていると、だんだん飽きてきて勉強がイヤになる。小4の頃にゲームに出合ってしまい、あまりの楽しさにハマってしまい、勉強をさぼるようになった。

記念受験で奇跡の灘中合格

小5の頃からずるずると塾のクラスが下がり始め、とうとう6年生の夏、講師から「灘を受けるのにふさわしくない」と引導を渡された。しかし、東大寺に合格できたこと自体が驚きだったので、「どうせならトップ校を受けよう、そして塾を見返してやろう」と灘中受験を決めた。結果は、合格最低点プラス2点でのギリ合格。たまたま試験の前日に解いた問題がそっくりそのまま出るという幸運に恵まれての奇跡の合格だった。

灘では一貫して下位をキープ

数カ月の追い込みで灘に滑り込んだ後は、その反動でまったく勉強しなくなった。周りが中1から鉄緑会などの進学塾に通って勉強する中、「自分はやりさえすればできる」と過信して何もやらなかった。宿題も中1の最初の頃やったっきり、あとは提出せず。授業もまともに受けなかったし、家庭学習も、週に1度家庭教師が来たときに数学を2時間ほどやるだけ。当然、ずっと成績は最下位、つねに学年ワースト10だった。

高3の秋に焦り始める

高2からは数学の家庭教師に加え、英語の家庭教師が来るようになり、週に2時間ほど家庭学習が増えた。でも勉強はそれだけ。塾にも予備校にも行っていない。ようやく焦り始めたのが高3の9月。模試を受けたら、数学の校内偏差値が1.5だった。「世の中にはこんな偏差値があるんだ」と愕然とした。全国偏差値でも低く、英語の全国偏差値も50を切っていた。東大の合格可能性は、当然のことながらE判定だった。

追い込みもむなしく、結果は不合格

高3の秋以降の勉強も、まったくの我流だった。数学は『チャート式』をみっちりやる。そのほかの教科も、市販の教材を使って、とにかく「独勉」というスタイル。1月、2月には一日8時間勉強したが、さすがに追いつくことはできなかった。センター試験の得点が足切りラインをわずか1%上回っただけで、「これで東大を受験できる」と喜んだが、二次試験で英語が20点くらいしか取れず、結果、1点差で不合格。後期の一橋も不合格だった。

浪人中もスロットにハマる「懲りない奴」

浪人したら、反省してまじめに勉強するかと思いきや、さにあらず。幸か不幸か、4月の模試で全国12位、6月の模試で3位という驚異的な成績を取ってしまった。東大模試もなぜかA判定。現役時代の追い込み勉強が、時間差で実を結んだのかもしれない。とにかくそれですっかりいい気になってしまい、塾長のところへ直談判に行き、「自分は自分のやり方で東大に合格するから、授業には出ません」と宣言してしまった。

マイペースの勉強法が功を奏す

11月の模試で偏差値が24ポイントも下がり、55に。東大の合格可能性E判定に逆戻り。2浪の危機を前に、やっと受験モードになった。11月の終わりからは、高3の追い込み期と同じやり方を採用。「自分の今の実力から見て、東大に合格するには、どの問題集をいつまでに終わらせなくてはならないか」を逆算して考え、2週間単位の計画表に落とし込み、それを実行していくというもの。使った問題集は、現役時代のものとほぼ同じ。数学は『チャート式』。英語は、文法用に『Next Stage』、単語用に『ジーニアス英単語2500』、長文読解対策に河合塾の「プラチカ」など。

短期間で受験勉強をものにする割り切り

一日のスケジュールは、予備校の自習室で昼12時から22時くらいまで勉強、途中1時間くらい休憩をはさむ。家での勉強時間はゼロ。集中力がない状態で勉強しても身につかないので、睡眠時間は8〜10時間を確保。「どうもやる気が出ない」というときは、無理せず休憩した。英単語や古文などの暗記物は、書くと時間がかかるので、読んで覚える。英作文は簡単な英単語を組み合わせて書く。数学は、わからない問題があれば深追いせず、さっさと解答を見る。参考書や問題集は、チマチマ補足説明を書き込んだり、ラインを引いたりせず、バンバン使って、買い直していった。

T.Yさん:高1、高2と落ち続ける成績

T.Yさんは、愛知県有数の進学校で360人の学年中200番台まで成績が落ちてしまった。高2の学年末の成績で、受験まではあと1年しか残されていない。しかし、友人との勉強会が運命を変え、現役で東大に合格した。

合格すれば前代未聞の快挙

高2の学年末の成績を見て、愕然とした。東大をめざす自分が360人の学年中200番台まで成績が落ちてしまうなんて。学校が卒業生の受験に関するデータをまとめた冊子を見てみると、東大合格者はみな成績の順位が学年で50番以内。だから、200番台から合格すれば、前代未聞の快挙になるわけだ。「絶対、この位置からのし上がって合格してやるんだ」そう気持ちを固めたときは、すでに高3になっていた。

高1夏の成功体験に油断

そもそも東大をめざそうと思ったのは、高1のときの担任からアドバイスされた一言がきっかけ。当時の成績は、学年で100番前後と校内では中くらい。ところが、高1の夏に受けた学外模試の成績が自分でも意外なほど良く、試験結果を載せた冊子に名前が出るほどだった。この、たまたま良かった学外模試の結果は、根拠のない自信を植え付けてしまった。校内では中くらいの成績でも、「優秀な生徒が集まっている受験校だから、そんなものだろう。ちゃんと勉強すれば、東大だって何とかなるさ」と、危機感はまったくなかった。

バスケとアカペラの日々

中学時代は部活とアカペラ三昧の日々。塾にも通ったことがない。家での勉強は宿題以外はとくにせず、定期試験前だけ1週間集中してするくらい。こうした生活は、高校へ入っても基本的には変わらない。高2までは、部活をして18時頃下校。帰宅して夕食を済ませたら、宿題をして、テレビを見て、12時頃には寝てしまう。高2の頃は、それまでより30分早起きするようになった。しかし、それは勉強のためではなく、ゲームをするためだった。

ついに得意な数学まで追試に

のんきな生活をしていたせいか、高校での成績はみるみる落ちていった。苦手な英語は、授業中も居眠りばかり。定期試験のとき、文法のテストが2点で、追試を受けたこともある。一方、理数系科目はもともと得意だったが、高2になると、数学もさぼってしまった。とくにひどかったのが、ベクトル分野のテスト。これは見事に赤点だったので、追試を受けなければならなかった。得意のはずの数学が追試になったときは、さすがにショックだった。

友だちの誘いが運命を変えた

高3になったばかりのある日、仲の良いクラスの友人が、「なぁ、俺たちいっしょに勉強しないか」と声を掛けてきた。実は、この一言が大きな転機になった。この誘いがなかったら、もしかしたら東大に受かっていなかったかもしれない。高3になって部活も終わり、遅まきながら受験勉強に本腰を入れ始めた。もともと仲間とつるむのが好きなこともあり、彼の誘いに二つ返事で乗った。このとき、勉強グループを結成したのは、東大、名古屋大学、そして医学部をめざす4人。全員が同じクラスの理数系男子だった。

友人といっしょに切磋琢磨を

勉強部屋は、放課後の空いた教室。毎日4人で集まっては、主に理数系の科目、とくに数学の問題集をいっしょに解いた。今日はZ会をやっているメンバーが問題集を持ってきたかと思うと、翌日は別のメンバーが、「東大の過去問、持ってきたけど、やらない」といった具合。そうやって、みんなで競い合って同じ問題を解き、わからないところは教え合う。この勉強会は、入試の直前まで同じメンバーで続けた。みんな得意分野が違うので、教え合うには好都合なグループだった。そんな友人たちとの勉強会があったおかげで、塾にも通わず、夏期講習にさえ行かず、東大に合格することができた。

受験生活中も12時に就寝

高3当時の平均的な一日は、朝は通学電車の中で30分くらい単語帳を使って英単語を暗記。学校で通常どおりに授業を受けたあとは、放課後に例の4人グループでの勉強会。2年生まで部活にかけていた時間が、勉強会に変わった。また、帰宅途中にマクドナルドに寄り、グループの中で一番仲の良い親友と勉強することもあった。もちろん、帰宅後も少しは勉強するが、それでも12時前後には寝る。家では主に問題集や過去問などにチャレンジ。たまに1時くらいまでがんばることもあったが、それ以上はやらない。生活のリズムは規則正しくしておいたほうがいいと思ったからだ。

つまずいた分野を徹底的に復習

苦手科目や不得意な分野は、次のようにして克服した。一番苦手で成績が悪かった英語は、友だちに薦められていっしょに買いにいった問題集を中心に勉強。それに加えて、単語帳を作り、電車の中では必ず見るようにして語彙を増やしていった。でも、なかなか成績は上がらない。それでも、「続けていれば、いつか上がる」と信じ、焦らずに続けた。数学は、つまずいた箇所があると、それをクリアせずに前へ進んでも理解できないことが多い科目。もともと数学は得意科目のはずだったが、高2時にベクトルでつまずいたので、そのあたりを徹底的に復習し、理解してから前へ進んだ。

センター試験対策は効率重視で

周りより遅れて受験勉強をスタートし、しかも現役合格をめざすわけだから、すべてをまんべんなく勉強していたのでは、とても時間が足りない。そこで、戦略を立てた。それは「二次の理数系科目に賭ける。苦手科目の社会、英語、国語は、センター試験で足切りされない程度に点が取れればいい」という戦略。足切りされなければ、センター試験の点数は8分の1程度しか加味されないからだ。実際に、二次試験では数学が8割、物理は9割、化学も6割がた正解することができたので、この戦略は大正解だった。

「C判定」でも東大まっしぐら

友人たちとの勉強会が功を奏し、3年生になってからは成績も徐々に上がってきた。しかし、東大に合格できるかは疑問だった。なぜなら、模試で良い判定が出たことがほとんどなかったからだ。しかも、最後の模試は「C判定」。でも、志望校は変えない。「東大の前期試験でだめなら、地元の大学の後期を受けよう」そう考えて、あくまでも東大をめざした。心のどこかに支えもあった。高2の学年末に200番台へ落ちようが、入試直前の模試が「C判定」だろうが、支えてくれたものは、あの成功体験――高1の夏に受けた学外模試での好成績だった。

T.Kさん:上海から来た自己中少年

T.Kさんは、父の仕事の関係で2歳から上海に住んでいた。9歳のときに日本へ一時帰国したが、転校先の小学校では少し浮いてしまった。その後、インターナショナルスクールで学び、13歳のときに急きょ帰国。駒場東邦中学校に編入したが、数学は赤点を3回も取った。

上海から来た自己中少年

上海では日本人学校に通っていたため、友だちはみな日本人。日本で暮らすのと何一つ変わらない生活をしていた。それなのに、転校先の小学校では少し浮いてしまった。上海では日本人学校でも多少の自己主張は普通のことだったが、日本では違うみたいだ。「おまえ、自己中だな」クラスメイトにそう言われても、小3だった自分には理由がわからず、漠然とした違和感を感じるだけだった。

インターナショナルスクールで学ぶ

日本での小学生生活もあと1年というある日、父に再び上海への転勤話があった。中学受験をするなら父は単身赴任という手もあるが、やはり家族で移住することにした。今度は以前の日本人学校ではなく、インターナショナルスクールに転校することになった。会話も読み書きも、英語はまったくできない状態で転校して来たのに、インターナショナルスクールでは授業も友だちとの会話もすべて英語。クラスにも日本人はほとんどいない。結局、このインターナショナルスクールで1歳から15歳まで学んだ。その間、英語力はすごく伸びたが、他の教科は日本よりかなり遅れをとってしまった。

街をさまよう中学生

上海から急きょ帰国することになったのは、13歳のとき。4歳下の妹が日本の学校に編入できることになり、それと同時に、駒場東邦中学校が編入生を募集していることを母が偶然インターネットで見つけたためだ。中2の5月から通い始めた名門の駒場東邦。しかし、また疎外感を感じてしまう。みんなの輪の中に入れない自分。毎日、学校へ行くのに緊張し、不安なときさえあった。それでも、硬式テニス部に入部して成果を出すようになると、周りが認めてくれるようになった。スポーツができるというのは本当に大きな強みだ。

部活中心の高校時代

部活は高1からレギュラーになり、テニス三昧の生活にのめり込んでいった。そして、高2で副キャプテンとなり、その年の11月に引退するまでリーダーシップを発揮した。硬式テニス部の練習は基本的には週3回だが、自分の場合は365日中360日は部活をしていたと思う。それも、朝から晩まで。朝7時から自主的に30分走り、7時半から朝練に参加。昼休みはまたコートへ行き、午後の授業がやさしい先生の場合は、そのまま昼休みを自主的に延長。そして放課後の3時半から6時頃まで練習。授業中は、寝ているか、テニス雑誌を読んでいるか、あるいは練習の計画表を作っているか、いいトレーニングの方法について隣席の友だちと話し合っているかのいずれか。そして、部活のあとも部員たちとしゃべり、帰宅はいつも8時頃。すぐに夕食を済ませると、もう眠くて眠くて、勉強どころかテレビを見る気力も残っていない。そのくらい自分のすべてを部活に注ぎ込んでいた。

理科は秋から短期集中で

母校の駒場東邦では、高2の秋の修学旅行が終わると、みんな一気に受験モードに切り替わる。それまではテニスばかりしていた自分も同様だ。11月で部活を引退すると、「さすがにやらなきゃ」と、火がついた。そして年が明けると、今後の学習計画をあらためて立てた。二次試験の受験科目は数学、英語、物理、化学の4科目。その中で、数学と英語は短期間の詰め込みでは実力が伸びない科目なので、高3の夏までに終わらせようと考えた。そして、9月以降は化学と物理に集中するというのが、このときに立てた計画だ。

図書館や喫茶店などを移動して勉強

受験生活中も家ではまるで勉強する気が起きず、図書館や学校の教室、塾の自習室などを利用し、図書館が閉まると喫茶店で勉強した。例えば、朝、地元の図書館へ行ったら静かすぎて眠くなったので、10分くらいで違う場所へ。向かったのは、自転車で20分のところにある別の図書館。しかし、そこでもやる気が出ないので、1時間以上かけ、本郷にある塾の自習室へ行った。ところが、そこも静かすぎて気が乗らない。そこで、喫茶店へ。それでやっと落ち着いて勉強できた。

簡単な問題集を繰り返し解く

こうしたやり方で受験勉強を続けたものの、模試はいつも本当に悲惨で、良い結果が出たためしがない。とくにひどかったのが、高3の11月中旬に受けた模試。東大理科Ⅱ類の合格最低ラインは440点中220点と言われていたが、なんと120点だった。センター試験まであと2カ月に迫ったその時期は、D判定の180点でも、かなりヤバイと言われている。ところが自分の成績は、それよりさらに60点も下。周りの友人はみな200点台だったから本当に焦りまくり、ものすごい危機感に襲われた。でも、そうした危機感も2〜3日しか続かないのが自分の性格。楽天的でヘンな自信家なのだ。

本番の落ち着きが合否の分かれ目

二次試験前の1カ月間は、もう必死だ。毎日、ものすごい緊張感とプレッシャーが襲って来て、自分の唾液の味が変わるのがわかるほど。この時期は、かつては「嫌いだから、やらなくていい」と思っていた暗記にも、さすがに取り組まなければならなくなった。理科の暗記物は、絵や図をノートに落書きっぽく書いて覚える。文章ではなく、矢印などで表現するのがポイント。そのノートは後から見返すことはないが、そうして書くことによって頭に記憶として焼き付ける。また、化学の成績を短期集中でアップさせるために、簡単な問題を繰り返し解いた。使ったのは、受験生なら誰もが知る数研出版の『重要問題集』。この問題集では、基礎的な内容のA問題とやや難易度の高いB問題に大きく分かれているが、A問題ばかりを繰り返し解いた。

まとめ

3人の東大生の体験談から見えてくるのは、どん底から這い上がるための共通点だ。Y.Sさんは、自分の実力を冷静に見極め、2週間単位の計画表を作って実行した。T.Yさんは、友人との勉強会で切磋琢磨し、戦略的に「捨てる教科」と「賭ける教科」を選択した。T.Kさんは、自分に合った教材と塾を徹底活用し、緊張感を利用して記憶力アップを図った。共通するのは、追い込まれたときの爆発力と、自分に合った勉強法を見つけたこと。そして、E判定でもめげないチャレンジ精神だ。保護者にとって、この章の学びは、子どもの可能性を信じ、適切なサポートをすることの重要性を示している。

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