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【社会・歴史】年表・人物史から歴史をおさえよう!〜織田信長の人物史〜

戦国時代、はじめて全国統一を掲げ、実行しようとしたのは織田信長でした。今回は年表をもとに織田信長の統一事業をみていきましょう。 

織田信長は、天文3年(1534年)織田信秀の子として尾張(現:愛知県)に生まれます。父信秀は尾張下四郡を支配する清洲城の織田家の家老でした。天文20年(1551年)父信秀の死に、信長は18歳で家を継ぎました。その後天下統一に向け、信長の統一事業が始まっていきます。 

弘治元年(1555年)尾張国統一へ

信長はまず尾張国を統一するため、反対勢力の一掃にかかります。尾張国の守護大名である織田信友を滅ぼします。その後清洲城を奪い、尾張国統一を成し遂げます。 

永禄3年(1560年)桶狭間の戦い

駿遠参三ヵ国(駿河、遠江、三河の三ヶ国のこと)の大軍を擁して西上する今川義元桶狭間で奇襲をかけ、滅ぼします。 

今川氏の支配下にいた三河の松平元康(のちの徳川家康)は永禄5年(1562年)に信長と同盟を組みます。 

永禄10年(1567年)美濃へ

次に信長は美濃(現:岐阜県)の斎藤氏を滅ぼし、斎藤氏の居城であった稲葉山城を岐阜城にし、後に安土城に移居するまで、岐阜城を拠点としました。この頃から「天下布武」の朱印を使い始め、武力による天下統一の意志を表明しました。 

永禄11年(1568年)足利義昭を擁して入京

信長を頼ってきた足利義昭を擁して京都に入った信長は義昭を将軍に仕立て上げます。しかし、信長は政治上の実権を掌握し始め、義昭との関係は悪化していきます。 

元亀元年(1570年)姉川の戦い

信長と関係が悪化した義昭は近江の浅井長政と、越前の朝倉義景と策謀し、信長の討伐を謀ります。浅井・朝倉の連合軍を姉川の戦いで信長は打ち破ります。 

元亀2年(1571年)延暦寺焼き討ち

信長は、浅井・朝倉の連合軍に加担した比叡山延暦寺を焼き討ちにします。無心論者と言われている信長は、宗教権力に対しても容赦無く武力で制圧しました。そんな信長が手を焼いたのは一向一揆でした。一向一揆については後ほど詳しく説明します。 

元亀4年(1573年)将軍足利義昭追放

浅井・朝倉と共謀し、信長を倒そうとした15代将軍足利義昭を京都から追放します。足利尊氏が延元元年(1336年)開いた室町幕府は5代将軍足利義昭の代で終わりを告げました。 

室町幕府は三代将軍足利義満の代で全盛期を迎え、嘉吉の乱(嘉吉元年(1441年))により6代将軍足利義教が殺害されると将軍の権威が落ちていきます。管領が台頭し始め、管領や守護大名らを巻き込んだ内乱である応仁の乱(応仁元年(1467年)から文明9年(1477年))により室町幕府及び将軍はその権威、実権を失っていきます。同時に各地で下克上の風潮が高まり戦国大名らが台頭していきます。 

そのような経緯を経て、室町幕府が滅亡するきっかけとなったのが織田信長でした。 

天正3年(1575年)長篠合戦

信長が浅井・朝倉の連合軍と戦っている頃、武田信玄は兵を率いて、信長と同盟関係にある三河の徳川家康の領地に進軍しました。しかし、進軍の最中に武田信玄が急死し、新軍を中止していました。 

天正3年(1575年)、三河の長篠合戦で信長は鉄砲と馬防柵を利用した今までにない画期的な戦法で、武田信玄の子勝頼が率いる騎馬隊を打ち破りました 

天正4年(1576年)安土城建設開始

武田軍に勝利した信長は、近江(現:滋賀県)に安土城の建設を始めました。のち、天正7年(1579年)に信長は拠点にしていた岐阜城を息子の信忠に譲り、安土城に移りました。 

現在、安土城は一部の石垣や石段が残る城跡があるのみです。 

天正2年(1574年)〜一向一揆 

信長が制圧に一番苦労したのは、摂津(現:大阪)石山本願寺を頂点にし、浄土真宗の門徒や寺内町の一向一揆でした。 

元亀元年(1570年)石山戦争始まる

本願寺第11代門主の顕如は諸国の門徒に信長と戦うことを呼びかけて挙兵し、11年に及ぶ石山戦争が始まりました。 

天正2年(1574年)伊勢長島(現:三重県)の一向一揆平定

・天正3年(1575年)越前(現:福井県)の一向一揆平定

・天正8年(1580年)石山本願寺屈服(石山戦争終わる)

信長は天正8年にとうとう石山本願寺を屈服させ、一向一揆を解体させることに成功しました。石山本願寺は現在の大阪にあった寺ですが、現存はしていません。 

天正10年(1582年)天目山の戦い

尾張から始まり、京都、近畿、東海、北陸地方を支配下に入れた信長は統一事業を成し遂げるために、甲斐(現:山梨県)の武田勝頼率いる武田軍を天目山の戦いで滅ぼします。 

天正10年(1582年)本能寺の変 

天目山の戦いから3ヶ月後、毛利氏征討に向かう途中に滞在した京都の本能寺で、家臣であった明智光秀の謀反によって信長は敗死します。 

信長の死後、明智光秀を討ち、信長の天下統一事業を引き継いだのは、豊臣秀吉でした。秀吉の天下統一事業については、【社会・歴史】人物史から歴史をおさえよう!〜豊臣秀吉の人物史〜で詳しく説明します。 

まとめ

1560年 

桶狭間の戦い 

1568年 

足利義昭を擁して京へ 

1570年 

姉川の戦い、石山戦争はじまる 

1571年 

延暦寺焼き討ち 

1573年 

足利義昭追放、室町幕府滅亡 

1574年 

伊勢長島の一向一揆平定 

1575年 

長篠合戦、越前一向一揆平定 

1576年 

安土城建設開始 

1580年 

本能寺平伏、石山戦争終わる 

1582年 

天目山の戦い 

1582年 

本能寺の変、信長敗死 

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